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田端文士村記念館沿いに江戸坂を上る
左に田端文士村記念館がある江戸坂は、田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。この坂の近くに、詩人の室生犀星などが住んでいました。 |
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江戸坂 田端高台交番前交差点で右折、田端高台通りへ |
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北区 Kバス 田端循環ルート #7 田端五丁目 |
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田端高台通り 富士見橋エコー広場館
富士見橋手前に建てられている。 |
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北区 Kバス 田端循環ルート #8 富士見橋エコー広場館 |
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田端高台通り JR跨線橋の富士見橋を渡る |
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北区 Kバス 田端循環ルート #9 駒込二丁目
左には女子聖学院の校舎が見える。 |
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田端高台通り 女子聖学院
一九〇五年(明治三八年)十一月一日、女子聖学院は、築地A十四番館の宣教師館を校舎として発足しました。
一九〇七年十月に、滝野川中里村大字中里字西坂に移って来ます。土地三九七〇坪の購入代金は、一七八七九円五〇銭でした。そこは麦畑・茶畑で桐畑だったと言います。
一九〇三年に池袋と田端を結ぶ山手線ができ、一九一〇年までは、駒込駅はありませんでした。
明治維新以来、日本は国をあげて欧米に追いつくための組織を作り、直接国のために役立たぬと思われた美術家や文学者は、粗略に扱われ、苦しいおもいをしました。
こうした時代、芸術家にとって、ミッションスクールの存在は、正しい目でものを見る教育の場所と考えられ、信頼するに足りる学校と、思われたに違いありません。
女子聖学院の初代PTA会長は、北村西望(彫刻家)でした。その他山田敬中・吉田三郎・柚木久太・国方林三・嶋野重之など多くの芸術家が、お嬢さんを女子聖学院に託されたのです。
一九一二年四月開設の中里幼稚園(現聖学院幼稚園)にも、芥川龍之介、室生犀星のお子さんがたが通われました。室生犀星の詩の中には、聖学院の教会や宣教師が登場します。 |
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北区 Kバス 田端循環ルート #10 女子聖学院 |
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田端高台通り 女子聖学院 |
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田端高台通り 滝野川福祉保健センター
バス停の右奥に滝野川福祉保健センターがあり、後方には西ヶ原交差点の歩道橋がある。 |
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北区 Kバス 田端循環ルート #11 滝野川福祉保健センター |
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田端高台通り 西ヶ原交差点で左折、本郷通りへ |